2011年3月30日水曜日

「渋の谷への扉」

第2章 《傍観者》が持って来たモノ

 眠たい眼を前脚で擦りながら、《傍観者》が会社へ着くと、今日はまだ誰も来ていなかった。
 何処からか取り出した、掌にすっぽり収まるサイズの楕円形をした底が平らな、あるモノを《傍観者》は弄び始めた。
 夢中になって爪を立てていた《傍観者》は連れだって入って来た《いたずら師》と《装飾師》に気付き、少し恥ずかしくなった。
「お早うございます」「おはよーすっ」
 好き勝手な挨拶を交わし合い、各自席に着くと早速仕事を始めた。
 《いたずら師》は隣の席の《装飾師》の席に、
「♪グリコーゲン、グリコーゲン」と歌いながらいつものいたずらを始めた。
 《装飾師》はパワースーツの企画書を新しく練り始めた。
 目の前の空間に半透明のスクリーンを出現させた《装飾師》は、自分の指と声を使って着々と作業を進めていった。

「お早うございます」
 部屋に入って来た《知識師》が諦観を込めた表情で椅子を直しながら、「エクセールとワド、受かりました」とにこやかに言った。
「でも、俺の勝ち~、♪グリ~コゲ~ン」と変な節を付けて鼻歌を歌いだした《いたずら師》を無視した《知識師》は、
「もう仕事を始めてるんですか?」と《装飾師》に聞いた。
「ええ、仕事が忙しくて、忙しくて大変なんです」
仕事の手を休めず、《装飾師》が答える。

 持って生まれたセンスを必要とする《装飾師》という職業は、その適正ゆえか、人数が少なく一人当たりの仕事量がとても多いのだった。

「ところで、それはもしかして・・・」
 《知識師》が語尾を濁したので、《いたずら師》と手を休めた《装飾師》が一斉に顔を向けた。
 訝しげな表情を浮かべた《知識師》が見つめていたのは、《傍観者》が手にしていた、あるモノだった。
「曾爺ちゃんから聞いたことがあるけど、それってマウスじゃないですか?」
「マウス?」「??」
「ええ、何でも大昔のパソコンは本体と入力装置のマウスというものが、尻尾で繋がっていたそうですよ」
「へえー、マウスね」
「よく知ってますね!そんな事まで」
 《いたずら師》と《装飾師》は《傍観者》の尖った耳と長い尻尾を見比べて
「道理で・・・」
「前から思っていたんですが、やはり《傍観者》って、ね・・・なんですかね・・・」
と、ひそひそと話し始めた。

 三人の思惑など知る由もない《傍観者》は長い尻尾をパタパタさせながら、いつまでも夢中になってあるモノ、マウスを小突いたり、ひっくり返したりしていた。



                  


 半球型のドームから差し込む人工太陽の日差しが斜めに傾き始め、いつものように業務が終わりを迎える。
「さあ、帰ろう、♪グリグリグリコ~ゲン」
「これからもう一つの会社で、新型のパワースーツの企画書を提出しなければならないんですよ」
「ほんと、大変ですねぇ」
 三者三様に会社を後にし始めた。

 一人取り残された《傍観者》は、暫くマウスを弄んでいたが急に興味を無くしたのか、それでも丁寧にそれをデスクに仕舞い帰る支度を始めた。

 反重力エレベーターで1階に降りた《傍観者》は残してきたマウスの事が気になるのか、何回も後ろを振り返りながら雑踏の中に紛れていった。
 
 仕事用のヒゲを、プライベート用のヒゲと付け替えるのを忘れていた事に《傍観者》が気付くのはだいぶ後の事だが、実は両方のヒゲはそっくりなので付け替えても周りの者は誰もその違いを分からない、という事を最後に付け加えておくとしよう。

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